千住の歴史
 

江戸の文化は千住にあり

 

千住はえど四宿の一つであり、日光道中の初宿でもあった。千住橋戸町には船着場があり、関東を始めとして日本各地の産物が陸揚げされ、千住掃部宿市場から、江戸や地方に出荷された。米殻問屋、青果問屋、川魚問屋などの市場が成立し、家内工業が起こり下駄や凧、煙草草入、などの産物が知られている。経済力と、江戸府内の様な規制を持たない自由な空気が多様な文化を産み出した。

奥の細道旅立ちの千住

千住は江戸時代の出入り口であった為、見送りや出迎えの場として利用され賑わった。
代表的なものとして、江戸時代の俳人、松尾芭蕉の有名な俳文紀行「奥の細道」の旅立ちが知られる。
1689年、芭蕉は深川から舟で千住に着き、初の句を詠み親しい人々に見送られて門人河合曽良と共に奥州に旅立った。

千住宿のなりたち

 

平安時代の頃の千住宿は今の元町のあたりにあった元宿です。源義家が東北へ向かった時、通ったのもこのあたりでその先、六月町の炎天寺に陣したのは有名な話です。                          鎌倉時代の千住宿は和田の宿といったそうですが、今の関谷町付近です。葛飾北斎の名画「関谷の里」はこの辺りを描いたものです。この先北上して花畑の大鶯神社付近の鶯宿が次の宿でした。               鎌倉末の頃から、現在の1〜2丁目地区に集落が形成され始め文禄3年(1594)に千住大橋が架けられ慶長年間にはその他の集落も集約され、1〜5丁目迄北組ができました。この頃までに掃部宿の開発が始まりその地区が中組(今の中町、後に橋戸町、河原町が分かれます)となりました。
寛永2年(1625)に日光街道の初宿と定められると隅田川南の二町(小塚原町・中村町)が加えられ南組とされ八町で千住宿が発足しました。

現在の千住

「隅田川」「荒川」二つの水辺に囲まれた北千住界隈。ルミネ、マルイなど西口周辺は近年、都内有数のショッピングエリアとして変貌を遂げてます。
 江戸時代に宿場町として栄えた土地柄、町のあちこちに江戸情緒が色濃く現存。
俳人・松尾芭蕉の「奥の細道・紀行」の出発地として知られるほか、歴史を感じさせる「蔵」が多数残ってます。
 1万3千発の花火が華麗の夜空を舞う「足立の花火大会」。老若男女が散歩を楽しむ「ウォークラリー」。劇場や黒澤明映像スタジオなどが併設する芸術拠点施設「東京芸術センター」、JR,東京メトロなど5駅5路線+つくばエクスプレス開通。
心にゆとりを与えるイベント、施設が目白押しです。
 



千住七福神​
 



本氷川神社「大黒天」 足立区千住3−22​

鎌倉時代の徳治二年(1307)に今の千住曙町に創設された牛田氷川神社が本神社の発祥です。江戸時代始めに地元の有志によって千住宿北組三丁目の現在に分社が造営せられ、荒川放水路の開削によって移転させられた本社を合祀し今日の姿になりました。

勝専寺「毘沙門天」足立区千住2−11

三宮神大鷲院といいます。創建は文応元年(1260)で法然上人の声咳にも接した専阿上人に依ります。浄土宗の寺院で本尊阿弥陀如来の四天王の一人毘沙門天が七福神の一人に選ばれました。千住の起源の一つといわれる千手観音、縁日で有名な閻魔堂があり、江戸時代以来時の鐘として親しまれた鐘桜があります。

氷川神社「弁財天」足立区千住仲町48−2​

石出掃部亮が千住の南n広がる湿地を開発すて町にしたときその鎮守とし勧告したのがこの神社です。
江戸時代中頃に名所図会にも描かれた関谷満天満を境内にひきとり今日の姿になりました。
 
千住神社「恵比寿天」足立区千住宮元町24−1​

平安時代の延長四年(926)、千崎稲荷として祀られたのが始まりで、元冦の役の直前弘安二年(1279)に氷川神社が勧請されました。千住宿ができるまでは二つ森といわれ、できてからは宿の西にあったので西森さまと親しまれました。

長円寺「布袋尊」足立区千住4−27−5​

月松山照光院といいます。江戸時代の始め寛永四年(1627)に出羽の湯殿山の行者によって作られた庵がはじめたといわれています。新義真言宗の寺院です。
本尊は薬師如来で、山門右側の八十八ヵ所零場の石碣は明治始めに建設されめずらしい風情を沿えています。

不動院「福禄寿」千住1−2−2​

白幡山薬師寺といい新義真言宗の寺院です。本尊は不動明王で鎌倉幕府滅亡の前年の元弘二年(1332)の創建です。中居町の八幡神社の別当寺だったので白幡山の山号があるといいます。

源長寺「寿老人」足立区千住4−1​

稲荷山勝林院といいます。石出掃部亮がこの町を開発し南側に造った掃部堤(今の墨堤道り)に接して建立されますた。浄土宗の寺院で慶長15年(1610)の創設です。本尊阿弥陀如来で、境内には江戸・明治期の碑文が多くあります。